名もなき日常

何気ない毎日が大きな物語を作っている

ピアノ

パリ在住の方のピアノにまつわるエッセイ的なものを読んでいる。

著者はピアニストではなく、ただ、ピアノをこよなく愛し、

ふと立ち寄ったピアノ修理工場に出逢ったことで、

ピアノに改めて傾倒していくという内容だ。

 

普段、ほぼ日本文学しか読まない(…というより読むチャンスがない)が、

この本の購入を決めたのは、他でもない「ピアノ」という

タイトルの中にある一単語に惹かれてのことである。

 

ピアノという単語や、ピアノの音には敏感に反応してしまう。

だからと言って、上記の著者と同様、ピアノを生業にしているわけではない。

過去に、ピアノを生業にしたいと考えたこともあったが、

「あなたの将来の夢は何?」と幼少の頃尋ねられ、

「ピアノの先生」と答えたあの時期くらいだろう。

ピアノというものに初めて触れて、まだ1年かそこらの時期だ。

自身の実力も理解していない、満足に弾ける曲すらない状態で、

よくも誰かに指導する身になりたいなど言えたなと今では思う。

ただ、その頃はピアノを弾くことが純粋に大好きだったのだろう。

 

初めてピアノに触れたのは、5歳頃だ。

記憶は曖昧だが、某企業が運営するグループレッスンに通い始めた頃には、

家にピアノが存在していた。

祖父母が私のためにアップライトピアノを購入してくれた。

単なる習い事のために、

安くもないピアノをわざわざ購入してくれるなんて、

ありがたい話だ。

(現在は、弾き手を失ったそのピアノは、

とある事情から知人宅に預けられている。

できれば、自分の手元に呼び戻したいが、

住宅事情により、できずにいることがもどかしい。)

 

それから10年程、講師の方に指導を仰いだ。

当時、ピアノ以外にもいくつかの習い事をしていたために、

ピアノの個人練習をする時間を放課後に設けることができず、朝早く起きて、

ピアノの練習をする生活を10年ほど続けた。

今考えると、まだ睡眠中の家族にとっても、ご近所の方にとっても

多大なる迷惑をかけていたと思う。

私の拙い練習に理解を示してくださったことには、感謝感謝です。

 

今となっては、もっともっと身を引き締めて練習しておけば良かったと思う。

安くない月謝を払ってもらっていたにも関わらず、

そこまで真剣に取り組んでいたかというと、レッスンに行ったときに

叱られない程度であれば良いくらいの心持ちだったはずだ。

こんな贅沢があってよいものか。

 

また、10年でレッスンを辞めた理由も、通学に時間がかかり、

部活動もやるとなるとレッスンに行く時間がなくなってしまうからというものだったが、

結果論として、さほど部活動には力を入れない高校生活になったため、

レッスンに行く時間くらいはいくらでも作れたはず。

部活動に代わる活動を高校では見つけたので、後悔をしているというほどではないが。

 

一人暮らしを始めてからは、実家に戻った時に、ピアノの蓋を開けていたが、

スポーツと同じで、1日弾かないだけで、1日分後退すると言われている。

毎日ピアノを弾いていた生活から十数年の月日が流れた今、

当時と同様の運指が期待できるわけもない。

その度に、己の実力のなさに絶望し、すぐに蓋を閉じてしまっていた。

そういうことが重なると、さらに自らがピアノを弾くという行為からは、

遠ざかっていた。

 

それでも、人生で初めて意識して触れた楽器がピアノであるから、

ピアノという言葉やその音に対して、敏感に反応してしまうのだろう。

 

音楽の中ではロックが好きだが、そこに少しでもピアノの音が入ると

自分にとって特別な楽曲になることが多い。

自身の音のルーツをたどると、ピアノの音になるのだろう。

 

今、読んでいる本はピアノの歴史や種類、仕組みにもかなり細かく触れているが、

自分はそこまで詳しいことは分からない。

ピアノの調律師の方が、普段は覗かないピアノの内部を見せてくれた時は、

興奮し、驚愕だったが、詳しいことまで当時は聞くことはしなかった。

ただ、知れば知る程ピアノという楽器の奥深さに気付かされる。

 

1年ほど前に、電子ピアノを購入した。自分へのご褒美に。

ただ、自由にピアノが弾ける環境を手に入れたくて購入したにも関わらず、

その蓋が開けられたのは、1年のうちの3分の1程度であるのが現実だ。

 

理由は、実家に帰った時と同様、思った以上に弾けないことが、

ストレスになっているのだ。

分かっている、レッスンに通っていた時期よりも長く、

弾いていない時間を過ごしてしまっているのだ。

弾けなくて当然。

 

それよりも弾けるようになったときの爽快感や達成感、

また音楽そのものを奏でる面白さを取り戻すことが今の自分に必要なことなのに、

弾けないことに対しての屈辱感が、ピアノに向かうことから遠ざけていた。

 

音楽好きの原点はピアノだ。

それは紛れもない事実だ。

だからこそ、自身がピアノに触れることを

下手なプライドから避けてしまうなんて、あってはならない。

 

上記の著書には、弾かれないピアノが最も不幸であるという記載もある。

その意見には諸手を上げて賛成だ。

 

まずは大好きな曲から。

弾けるようになったら、きっと気持ち良い。

そしたら、弾き語りなんかもまたやってみよう。

湯船に浸かりながら

お風呂から上がった後が、一番ポジティブになれる気がする。

発想が自由だから? 一日の出来事をキレイに洗い流してくれるから?

お風呂上がりに鏡の前に立つと、その時は、「明日はこれをしよう」

「こうしてみるのも良いかも」という気が起こる。

 

ただ、睡眠数時間の果て、朝が来ると、

前日の鏡の前で起こった晴れやかな気持ちが、どういうわけか、

どこかへすっかり飛んでいってしまっている。

困ったものだ。

 

それならば、お風呂の時間を朝にシフトしてみようとも考えたが、

外出する時間が決まった状態でお風呂に入るのは避けたい。

前日、帰ったまま寝てしまった時には、仕方なく朝に浴室に行くが、

その時の目的は、とにかく前日の汚れを落とすことだけ。

朝、湯船に浸かるなんてことは、ほぼあり得ない。

 

その日の疲れを癒す時には、湯船に浸かりたいし、

湯船に浸かる時には、本を読みたい。

だから、時間に制限がある朝では、物足りないのだ。

元来、何もせずにボーッとすることができない質のようで、

湯船に浸かっている時にも、何もせずに浸かっているということはほぼない。

 

一人暮らしを始めた十数年前から、湯船に浸かるときには、

必ず本を持っていくことが習慣になっている。

実家にいた頃は、絶えず大声で歌を歌っていた。

 

話は逸れるが、温泉というものがあまり得意ではない。

温泉に入る好きではあるが、

温泉に行く目的が、あまり肌になじまないのだと思う。

いくらでも浸かっていたいのだが、浸かっている間にやることがないからだ。

宿泊している部屋にでも温泉があり、ある程度自由がきくならば別だが、

大浴場の温泉に浸かるということになると、さすがにマナーは守らねばならないからだ。

 

友人と話でもしながら浸かれるならば良いのだが、

一人で温泉に浸かるのは、手持ち無沙汰で仕方がない。

もちろん、体の芯から温まることができ、筋肉がほぐれていく感じには、

心地よさを感じるのだが、そこに至るまでの時間があまりにも手持ち無沙汰であると感じてしまう。

 

話を戻そう。

湯船に浸りながら読むものは、小説が適していると思う。

なぜなら、ただただ物語の世界に没頭できるからである。

ただ、その際に注意が必要なのは、

あまり古典的な小説ではないものが好ましいということだ。

なぜなら、古典的な小説であるほど、言葉の使い回しへの理解が困難だったり、分からない言葉が頻繁に出て来たり、

読み進める時のスムーズ感が損なわれるからだ。

防水状態のスマホを携帯して、

分からない言葉や言い回しをその場で調べるという方法も考えたが、

浴室内に持ち込むものは最小限に抑えたいため、

難しそうな言い回しが多いような小説は避けるようにしている。

 

また、小説以外の本は、

気になった箇所について、メモしたり調べたりしたいため、

これまた湯船で読むには、手間がかかる。

できれば机があるところで、集中して読みたい。

 

物語を読んでいるだけで、なぜ入浴後にそこまでポジティブになるのか。

小説の内容如何では、ネガティブな感情が起こってもおかしくはないと思うが。

自分とは異なる世界を活字の上で体験したことによって、

思考が開放的になるからか。

重いテーマの時には、「自分は恵まれているのかもしれない」と

再確認しているからか。

未だに、どうして入浴後の鏡の前が最もポジティブな感情になるのか、

答えは出ていない。

 

ただ、湯船に浸かりながら、活字の世界に没頭している時間が、

ある種の幸福な時間であることは間違いない。

 

そうそう、湯船に浸かりながらの読書に、水分補給は欠かせない。

そのための水も一緒に浴室に連れて行くことも忘れずに。

青い空

空が青い。それだけで、心が晴れる。

普段あまり携帯電話で写真を撮影したりしないが、

空が青いと、ついシャッターを切りたくなる。

 

空が青い。それだけで泣きそうになる。

そのような歌詞の楽曲が発売された時に、この感情を端的に歌詞にできる人の

心の清らかさに感銘を受けた。

 

青い空は季節によって、表情が違う。

冬の青い空は、空気が澄んでいるせいか、

青いが他の季節よりもはっきりとしている。

空気が冷たい分、より青い空の暖かさやありがたさを感じる。

青が凛としているという感覚だろうか。

 

夏の青い空は、空がつながっていることを実感させてくれる。

その青い空をたどっていくと、

夏を満喫できる場所に連れて行ってもらえるような感覚に襲われる。

真っ白な雲が浮かんでいると、青と白のコントラストの眩しさに、

なぜが後ろめたい思いすら感じてしまう。

 

青い空の下に、洗濯物を干すのが好きだ。

太陽の光と風を受けて、青い空にそよいでいる洗濯物をうらやましく感じる。

こんなにも青い空の下にいる意味があるなんて…と。

軽い嫉妬から、まだ青い空の下に干していてもよい洗濯物を

十分に乾いたからという理由で、取り込んでしまう。

青い空の下に洗濯物を干すことが好きだからこそ、嫉妬心も大きい。

 

青い空が好きだからこそ、

青い空の日にあえて部屋の中にいるときの背徳感もまた心地よかったりもする。

 

自分の心にひっかかりを感じている時に、青い空の下に出ると、

まっすぐに青い空を見上げることができない。

それでも、まっすぐに見上げずにはいられない。

それほど空が青いことに、救われる時がある。

 

いつでも空が青いとは限らない。

青さが足りない日もあるし、

くすんだような灰色を空ににじませている日もある。

 

そんな日も空を見上げてみる。

「泣き出しそう」という表現をする人がいるが、

泣き出すのではなく、次の青い空の準備のようにも感じられる。

これから泣くのではなく、笑顔になるための前兆なのではないか。

 

青いだけが空じゃない。青い空だけが良いわけじゃない。

でもやはり、空が青いことを願ってやまない。

 

目覚めた時に、空が青いというだけで、

布団から起き出す体が軽いのは、気のせいではない。

公園

歩いて1分程度の場所に公園がある。

ほぼ毎日と言ってよいほど、その公園の中を通る。

最寄り駅に向かうために横切っているからだ。

私にとってのその公園は、駅までの道のりを少しばかりショートカットするための道としての役割が大きい。

そのために、立ち止まることはほとんどない。

桜の咲く頃に、公園をピンクに染めるさまを写真を撮ることがある程度。

あとは、一度、遊具がアートな感じでライトアップされていたことがあり、

そのときも足を止めた。

それ以外は、基本は、入り口から出口まで向かうだけだ。

 

公園内は、コンクリートではない。

そのため、雨の日には、履物が汚れるという理由で、公園内は大股歩きになりやすい。

ただ、入り口から出口までの最短距離の直線上は、水たまりができやすいため、細心の注意が必要だ。

うっかり水たまりにはまってしまい、

履物から水がしたたるような状態になってしまうことも一度や二度ではない。

 

広さでいったら、だいだい15〜20メートル四方程。

存分に広いというわけではない。

鉄棒と滑り台と砂場があり、あとはひなたぼっこに都合がよさそうなベンチが幾つか。

アスレチックのようなたいそうなものはないし、

園内ではボールの使用が禁止されているため、キャッチボールとかは御法度だ。

春の風の穏やかな休日に、バドミントンをしているカップルはたまに見かける。

(バドミントンはボールでないという認識でよいのだろうかとも思いながら。)

 

広さが保証されているわけではない公園だが、確かにそこには人々の時間がある。

 

平日の午前中は、近くの保育園に通う園児たちが、

先生に連れられて、元気に走り回っている。

公園を横切る人には目もくれず、一心に公園中を駆け回っている。

どれだけ寒い冬の日にも、ほっぺたを真っ赤にさせながら、

公園での時間を満喫している。

それほど広くないと大人が感じても、園児にとってはきっと広い世界。

遮るものがなく、思う存分に走り回れる場所。

園児にとっては、この公園での時間は、

保育園での大切な思い出のひとつになるのだろう。

 

午後になると、ひなたぼっこにうってつけのベンチには、

ギターやウクレレを演奏すシニアの姿が目立つ。

風に吹かれて音を発する木々と弦のやわらかい音の自然のコラボレーションは、

ひなたぼっこをしながらうとうとしている人の心地良い子守唄になるだろう。

たまに、公園の近所から聞こえる子供のピアノの音が重なることもある。

ギターを弾きたいと思っていたので、

いつか勇気をふりしぼって「教えてください」って、声をかけてみようかな。

 

夜になると、人の姿をはっきりと見て取ることができないため、

シルエットや漏れ聞こえる会話等で、公園にいる人への想像を巡らせる。

ただ、あくまで公園を横切っているだけの身なので、立ち止まったりはせず、通りすぎる間の情報量で、どのようなシチュエーションなのか想像してみる。

 

引っ越してきて間もない頃、男性同士がものすごい剣幕で

言い争いをしている現場に出くわしたことがあった。

夜も深く、声だけしか聞こえなかったため、

怖さもあり、巻き込まれないようにとそっと足を早めたが、

後々、それがお笑いの練習であったことを知った。

近くにお笑いの事務所があるせいか、夜に公園で練習をしているようだ。

芸人にとって、公園は絶好の練習場所だろう。

そして、公園で練習をしているということは、

おそらくまだ駆け出しの芸人だろう。

いつか公園でのネタ合わせが、自らの原点だったという話を

メディアで聞ける日を願うばかりだ。

 

夜は、ベンチにスーツ姿で腰掛け、ビールを呑んでいる会社帰りと思われる人もいる。

そこまで大きな公園ではないから、おそらく近くに住んでいる

帰り道途中の人なのだろう。

今、そのタイミングで、公園でビールをあおるのはなぜか。

それほど遠くない場所に自宅があるのだろうから、

家に帰ってゆっくりアルコールの時間を楽しめばよいではないか。

それでも、公園のベンチで一杯ひっかけてしまう理由がそこにあるのだろう。

そんなことを想像すると、少しだけ切ない思いに駆られる。

 

夏には、公園に併設されている公共のプールが開放され、

ファミリーを中心に利用する人が多い。

200円程度で利用できるようなので、重宝されている。

プールの休憩等のアナウンスには、拡声器を使っている。

小学校・中学校時代のプールの時間を彷彿とさせる。

夕暮れが空をオレンジに染める前に、係の人がプールの時間の終わりを告げる。

夏の夜はまだ先なのに、太陽が沈む前に、プールの時間は終わってしまう。

 

公園での人々の時間に触れると、そこに公園があることの意義に気付く。

そこに公園がなければ、そこで過ごす人の時間もない。

そこに公園があることは、ただ通り過ぎるだけのものであったとしても、

自分にとっては、重要なことだ。

 

明日は、少しだけ公園内をゆっくりと通り過ぎてみよう。

 

あてのないウォーキング

7年程前に、

会社のメンバーでどこかの市が開催する駅伝に出場しようということになり、

ランニングの練習に励んだ時期があった。

また、自分の中のモヤモヤした気持ちを吹き飛ばすために、

夏の夜に家の周辺を闇雲に走った時期もあった。

目的のあるランニングをしていた時の話。

 

ただ、「ウォーキング」というものをこれまでやったことがない。

もちろん、移動のために歩くことは日常だが、

あくまでも移動のための手段として、歩いているため、

いわゆる「ウォーキング」とは、異なるものだろう。

やったことがない理由は、

目的や目的地がなく歩くということの意味が、見いだせなかったからである。

 

ダイエットのためならば、体力をつけることも同時に考え、

走った方が効果的だと思っていたし、ウォーキング以外の手段の方が、

「ダイエットをした感」が得られると思っていた。

 

ただ、今、ウォーキング(というよりはただの散歩)が日課になりつつある。

1日40分から1時間程度。だいたい5〜8キロくらいの距離になるだろうか。

 

目的は体力・持久力の維持と体重制限。

過去の自分だったら、上記の目的ではウォーキングは選択しない手段だが、

今の自分にとっては、

最も手っ取り早くて効果的な手段がウォーキングであると結論づけた。

 

移動が目的の時には、電車に乗ってしまっていた道のりを、

たった1駅分でも歩いてみると、これまで知り得なかった生活が垣間見える。

 

古レコード店では、入り口のスペースを利用して、

レコードを均一100円で売り出している。

老若男女が、お気に入りのレコードを見つけるべく、

手に取るレコードのジャケットとにらめっこ。

箱の中に縦に並べられたジャケットを1枚ずつ引き出しては、吟味し、

気に入るものがあれば脇に挟んでいく。

アナログの良さが見直されつつあると言われているせいか、若者の姿も多い。

店内には、CDも所狭しと並んでいるが、客は見向きもせず、

レコードに夢中だ。

ふと彼ら彼女らは一体どこで、100円均一の情報を調べるのだろうとふと考えてみた。

常連客なのだろうか?

実はこのレコード店、SNSを盛んに活用して宣伝してたりして?

もし、たまたま通りかかった店で、このようなセールに巡り合ったのであれば、

それは幸運だろうな。

 

駅から5分程度の場所に釣り堀を発見した。駅から近距離であるにも関わらず、これまで釣り堀があるなんて、気付きもしなかった。

平日は、2〜3人程度しかいないが、週末は、結構混み合っている。

3メートル四方の釣り堀に、隙間なく人が座っていることも多い。

週末に遊びに来た孫を連れ、一緒に釣り糸をたらしているおじいちゃんかな?

都会の喧噪に疲れ、少しばかりゆったりした時間を過ごしたい大学生かな?

そこに流れる時間は、ゆったりとして幸福の象徴のようなものに感じられる。

 

レコード店の前を通ることは、これまでもあったけれど、

駅へ急ぐための通りの一角に存在しているこじんまりとした店であるため、

そこに誰がいるのか、店でどのような催しをやっているのを気にしたことはなかった。

 

釣り堀に関しては、存在自体を知らなかった。

これまでとは、別の方向にたった5分だけ歩いた場所にあり、

利用者にとってみれば憩いの場所を、知る由もなかった。

 

目的地は明確ではないけれど、これまでに見つけられなかった景色や人々の営みに触れられるのが、あてのないウォーキングの醍醐味であると気付き始めた。

 

目的がないとか、目的地がないとは言っているが、

ウォーキング中に必ずやるように心がけていることがひとつだけある。

それは、本屋に寄ること。

本屋の個性が見えるところが面白い。

同じ系列の本屋でも、店舗によってイチオシのタイトルや陳列の仕方が異なるため、

その違いを楽しむことができる。

ウォーキングの時は、可能な限り身軽でいたいことから、

本を購入することは避けているが、

先日は、古本屋に立ち寄った際に、本を購入した。

本との新たな出逢いをウォーキングが紡いでくれた。

 

己の足で歩くことで出逢ったものは、己の感性をより高めてくれる。

あてのないウォーキングだからこそ、本来の目的以外の出逢いを齎してくれる。

 

タイミング

タイミングというものは、時に自分の意思とは別に訪れる。

 

昨年の秋口に、退職を申し出た。

 

理由は、家庭不和を避けるためだ。

 

もちろんそれだけではない。

自分の中で、この仕事を続けていく自信や気力を失ってしまったことも大きい。

どれだけ家庭不和が原因であっても、

本当に続けたいを思えば、その手段はいくらでもあったはずだ。

要は、それを理由にして、自分の弱さを隠したかったのだ。

 

また、それ以外にもやりたいこと、すなわち「夢」というものが、

自分はあるのだと、自分なりに表現したかったのではないか。

 

具体的にどうしたいというものがはっきりあるわけでもない。

ただ、漠然と、大好きなものに触れていたいと思っている程度の

いわゆる薄っぺらいものだ。

口に出すのもの恥ずかしいレベル。

ただ、同様の夢を持つ友人が、少しでも自分より良い環境に身を置いていると、

それを心底羨み、己にもできるはずだと思い込む。

 

ただ、そこに踏み出す勇気も行動力もなく、

漫然と仕事を続けてきたが、結局、次のビジョンがないまま、

一時の家庭不和の回避のために、退職を申し入れた。

 

ありがたいことに、退職を避ける手段を

会社サイドとしては、いくつか提示をしてくれた。

ただ、それに応える回答を自身は持ち合わせておらず、

最終的には、退職の意を受け入れてもらった。

それが、半年程前の話。

 

ただ、次に行く会社が決まっているというわけではなかったので、

退職そのものを急いでおらず、年をまたいで退職することになった。

時間はまだ半年弱ほどある。

今後については、ゆっくり考えれば良いと、

まずは退職までの仕事に精を出すことを決めた。

 

ただ…

退職が決まった1ヶ月後、予期せぬことが起こった。

まったく予期せぬことかと言われればそうではないが、

このタイミングでなければならないことではない。

 

もっと早いタイミングでも起こりえたし、

もっと遅い可能性も十分にあり得た。

ただ、退職が正式に決まった1ヶ月後に起こったのが事実だ。

 

正確に言えば、退職が正式に決まった1ヶ月後に発覚したことなので、

もっと早く起こっていたことではある。

 

妊娠だ。

 

繰り返しになるが、もっと早くても、もっと遅くても問題はなかった。

それなのに、退職が正式に決まった1ヶ月後に判明した。

 

もっと早かったら、退職を選択せずに、産休・育休を取得するという選択肢を

迷わず選んだはずだ。

もっと遅かったら、転職の準備を始めていたであろう。

そして、新天地での仕事が落ち着くまでは、仕事に専念する選択をしたであろう。

 

でも、あのタイミングだった。

自らの意思とは別に、唐突に訪れた。

 

だからこそ、そういうものなのだろうなと思った。

何かを決めると、それに付随して、他の何かが動き出す。

それは、自分の意思とは全く別のところにある。

ただ、今回のことは、実は己の潜在的な意思なのではないかとも思う。

徐々にそう思うようにもなってきた。

 

産休まで2〜3ヶ月の妊婦だと分かっていながら、採用する企業はほぼ皆無だろう。

その結果、職業欄の「会社員」を選択しない生活が今日からスタートするのだ。

 

あのタイミングでことが起こらなければ、今の生活を選択していなかっただろう。

タイミングというものは、自分の意思とは別に訪れるが、

そのタイミングが、岐路になり、別の物語の始まりにもなる。