名もなき日常

何気ない毎日が大きな物語を作っている

先日最終回を迎えたドラマ『カルテット』で、

松田龍平演じる別府司が「夢を見て損することはなかった」と言ったが、

その意味する「夢」とは意味が異なる夢について書いてみたい。

 

最近は、「夢」を見るということがめっきり減ってしまったため、

睡眠中にしか夢を見ることはない。

(1年くらい前までは、まだ「夢」に貪欲で、

 叶えられていない「夢」にもがいていた時期もあったのだ。

 もういい歳なのに。)

 

昔からどこでも眠ることができ、短時間の睡眠であっても、よく夢を見る。

夢の中で、現実でないことが分かるという人がいるが、

自分は夢を見ている時には、現実でないという自覚はほぼない。

だからこそ、夢を見ている時間を、十分に満喫している方ではないか。

 

夢の中では、小説を読んでいるように、

現実ではない自分の世界を堪能している。

少なくともその時間は、楽しい思いをしたい。

けれど、残念ながら夢をコントロールすることはできず、

目が覚めてから、夢でよかったと思うことも多々ある。

 

見ている夢が自身の心理状態の表れであるとも言われている。

寝る前に考えていたことが、夢という物語になって、

語りかけてくるようなことも多い。

また、全然考えていなかったことが、夢という形で、

自身の前に姿を現すこともある。

潜在的に何かを訴えかけられているのだろうか。

そのような時は、ある意味で寝覚めが良くない。

しばらく、布団の中から出ることができずに、ぼーっとしてしまう。

 

最近、会社のメンバーと一緒にリレーに参加する夢を見た。

自分はアンカーを任された。

バトンを渡すようなリレーなんて、15年くらいやっていない。

中学生の運動会で走ったのが最後だと記憶している。

当時は、1番目の走者だった。ただ、バトンを2番目の走者に渡したのは、

自分が最後だった。要するに、ビリだったのだ。

当時、陸上部のハードル(100メートル)の選手だったのに…

今更、そのときの嫌な記憶から抜け出したいと考えているのだろうか。

しかも、特に苦い思い出と自分の中で位置づけている記憶でもないのに。

 

夢の中では、アンカーの自分が一番でゴールテープを切った。

しかもそのときのタイムが、社内の歴代記録を塗り替えたということで、

社内報のようなもので、発表された。

特に最初から狙っていたことではなかっただけに、

恥ずかしながらも嬉しいという感情を夢の中で抱いたように記憶している。

そう考えると、やはり中学校時代のリレーの記憶を

無意識のうちに、嫌なものと思っていたのかもしれない。

 

目が覚めると、たくさん見たはずの夢は結構忘れてしまうことが多いのだが、

上記の夢は、自身の中でもインパクトが強かったため、

直近の夢の中では、ある程度鮮明に覚えている。

 

自身が見た夢の断片をつなぎ合わせたら、

案外面白い物語になるのではないかという甘すぎる考えを持ったこともある。

ただ、そうは問屋が卸さないらしく、目が覚めた時点で覚えている夢も、

時間の経過とともに、大枠すら忘れてしまっていることが多い。

また、見ている本人が面白いと感じても、

本人のこれまでの経験等があるからこそ面白いと感じるものであって、

他の人に聞いてもらうと、

そうでもないということも実は多いのではないかとも思う。

 

そうそう、『カルテット』でも髙橋一生演じる家森諭高が言っていましたね。

人が見た夢の話ほど、共感できにくいというようなことを。

「へえ〜」しか生まないって。

 

でも、これから叶えていくための「夢」は、周囲の人も一緒に

見ていくことができるから、キラキラしていて、語るに値するのだろう。

 

なんてつまらない夢の話を長々としてしまったのだろうと、

軽い自己嫌悪に陥りながら、

最近、めっきり見ることがなくなった自身の「夢」を

もう一度、イメージしてみるのも悪くないなと思う。