名もなき日常

何気ない毎日が大きな物語を作っている

中途半端

自身の性格の特徴なのだと半ば諦めているが、

結構色々なことに手を出しては、途中で辞めていることが多い。

誰かに強制されて始めたことでなくとも、最後までやり抜くということが、

あまりできないらしい。

継続することの美しさは理解しているつもりだが、

それはあくまで他の人の美談としての理解にすぎない。

 

過去に最も続いたことと言えば、とあるバンドのファンであることくらいだ。

(現在進行形。)

周囲からはよく飽きずに追いかけ続けていられるねと言われるが、

それくらいしか、続けられているものがないだけだ。

他の人が継続している尊いものが、自分にはなかったのだ。

 

だからといって、そのバンドについても、

全資産をつっこんでまで追いかけているのかと言われると、そこまででもない。

20年近くファンクラブに入り続けていて、音源は購入して、

ライブがあれば、行けるだけ行くという程度だ。

複数買いをするわけでもなく、遠征はワンツアーに多くても2回程度、

ライブグッズをしこたま購入するわけでもない。

継続していることではあるが、それもまた中途半端と言わざるを得ない状態だ。

 

どうせ続かないのであれば、最初からやらなければ良いとも思うのだが、

なぜか始めてしまうのである。

要領はよくないが、最初からまったくできないということでもなく、

興味を持てる程度にできるため、「もしかしたら…」「極められれば…」という

根拠のない自信が芽生えてしまうのだと思う。

 

ただ、始めるときの動機があまりにも不純であるため、

続けるという効力が途中で薄れてしまうのだろう。

そもそも自身のことであるのに、「思う」「だろう」が多いことから、

ことを熟考せずに始めてしまい、熟考せずに終わらせてしまうという

結果を招いていると考えられる。

 

小学校にあがる前から、習い事を複数始めていた。

小学校の頃の習い事は、

【ピアノ、スイミング、そろばん、習字、英語(公文)】

この頃はおそらく自身の意思ではなく、親からの提案で始めたものだが。

一番続いた習い事がピアノ。それでも10年程度。

10年続けたからと言って、これといった功績は特にない。

今、趣味で弾く程度だ。

 

スイミングについては、泳法はすべて習得できたが、

社会人になってから、ダイエットのために一時期通ったジムのプールで、

少しばかり役に立つ程度にしか、効果を発揮できていない。

 

そろばんと習字は、今の生活の中でそれなりに役に立つことはあるが、

食べていくための手段には到底できるものではない。

中学校くらいまでは、賞状やトロフィーをもらう程度には、

習得できていたけれど。

 

中学校で入部した部活は、陸上部。それも、消去法で選んだ部活だったから、

陸上部が比較的強かった高校では、太刀打ちができなかった。

仮入部で挫折。一応、中学校の時は、県大会に出場したという実績だけはある。

 

高校では、運動部の仮入部には結構行ってみたが、結局入部に至らず、

写真部に入部。ただ、活動は展覧会前の時くらい。

写真の基本を教えてもらうでもなく、

それを習得する意欲があるわけでもないから、

ただ、フィルムの一眼レフカメラを買って、撮影するだけに留まった。

その後、一時期趣味にしていたこともあったが、

基本の理解できていなかったためか、

趣味のひとつとして数えるにはおこがましいと感じるようになり、

今は、もっぱらiPhoneに頼るのみ。

 

性格も中途半端。

極端にポジティブでもなければ、生粋のネガティブというわけではない。

めちゃくちゃテンションが高いこともあれば、

落ち込んだり悩んだりして、ウジウジしていることもそれなりにある。

そんな性格だから、自分で納得した決めたことについても、

後悔はしないにしても、別の道を選んでいた時にどうなっていたのかを

考えてしまうことも多い。

 

大学生になっても、社会人になっても、

その性格…というか性質は変わらないとつくづく感じる。

いろいろと手を出してはみるが、どれも極めることができず、

ある程度かじって、それなりの知識はあるけれど、実践に及ばないことが、

あまりにも多い。

それをどのように、趣味や自身の今後につなげるのかということへの

考えがあまりにも甘いのだ。

始めるときのゴール設定が甘いのか。

いや、始める時はさほどハードルが低くて良いと思うのだが、

最初のゴールが見え始めた時に、次のゴール設定に考えが追いつかないのだ。

 

そして、決定的なこととしては、これだけ飽きっぽくて、諦めがちな性格で

あることを自身が分かっているにも関わらず、

とにかく続けようという覚悟がないということである。

始める時は、気合いが入っているために、ゴールに向かって猪突猛進するのだが、その熱意が途中で消えかける。

そこで、どうすれば続けられるのかを人は考えると思うのだが、

自分は、そこでプツンと糸が切れてしまい、それを再度紡ぐことができない。

 

ある程度できたことによる満足を得られるのも良くないのかもしれない。

できない時期は、できるようにもがくことができるが、

その後、同じことの繰り返しだと感じてしまうと、

更なる高みを目指すのではなく、他のことに手をのばしてしまいたくなる。

継続することで得られるものではなく、別のものや別の道に、

理由もなく惹かれてしまうのだ。

そして、やってみてある程度できると、「自分にはこれが向いている」と

思い込み、その時は夢中でやるのだが、また途中で息切れを起こす。

 

この性格が嫌でたまらず、どうにかならないかと常日頃思っているが、

結局直らないということは、心底嫌だと思っているのではないのかもしれない。

案外、その思いも中途半端で、

しばらくすれば、また別に熱を込められるものが表れて、

そのことに心奪われていくのだろう。

 

この文章を書いている今も、

思いつくままに、キーボードを叩いているという中途半端な状態だ。

 

そしてこの文章そのものも、何のまとまりもなく、

中途半端な状態で終わりを迎えることが、容易に想像できる。

 

きっとこれからも、中途半端を積み重ねていくことだろう。

「チリも積もれば山となる」というが、「中途半端」も積み上げれば、

それなりになるだと、漠然と信じながら。