名もなき日常

何気ない毎日が大きな物語を作っている

廃人から俳人へ

廃人と表現すると極端すぎるかもしれないが、しばらく無気力な状態が続いた。

基本的に喜怒哀楽が激しい人間のために、調子が良いときは、

放っておいてもどこまでも走れるのだが、落ち込み始めると、

止めどなく負のスパイラルに入り、抜けなくなってしまう。

 

また、今は特にホルモンバランスが低調であるためか、

感情のコントロールが一層困難で、

無気力状態からの脱却にしばし時間がかかることもしばしば。

 

ある程度、「やらなければならいこと」とか、「計画」に追われている方が、

元来の自分の性格には合っているのだと思う。

ただ、「会社員」という職業を手放した今は、

朝決まった時間までに、会社に行かなければならない、

いつまでに何かしなければならないという縛りがなくなり、

ある意味では、「自由」な状態を強いられてしまっている。

そう、「自由」を強いられているという状態。

自分のためだけに時間を使うとなると、何をしてよいものか分からず、

そのことに悩まされたまま、時間だけが経過してしまうという始末。

 

そんな無気力状態の自分は、とにかくソファに寝転んで、

地上波を始め、BSやCSも含めて、ひたすらサスペンスをはしごすることだ。

このスパイラルにはまってしまうと、抜け出すことがほぼ不可能に近い。

夕食の時間まで、ひたらすサスペンスタイムである。

「この回が終わったら、洗濯物をたたもう」と考えていても、

厄介なことに、間髪入れずに次の回が始まってしまう。

平日の14:00〜17:00の地上波テレ朝は、

この手法で3時間ノンストップで放送してくるから、たまらない。

しかも、1時間で完結するものを3本放送するから、ついつい見てしまう。

昼間のサスペンスの再放送の視聴率の我が家の貢献度は高いと思う。

(我が家は視聴率の対象の家ではないが。)

 

さて、そのような廃人に片足突っ込みかけている自身が、

一体なぜタイトルに「俳人」なんていう崇高な言葉を使用しているのか。

俳人としての称号を持つわけでもなく、俳句が趣味というわけでもない。

ただ、最近俳句に関する番組を観ていて、十七音という限られた字数で、

映像を表現できるということに、魅せられたからである。

 

また、俳句は川柳とは異なり、季語を用いることが鉄則とされている。

ただ、音数だけでなく、季節を表現する言葉も用いるという制限が、

一層十七音の世界に深みや趣、奥深さを加えているのだと思う。

 

他人と比較した時に、特筆すべきことが目立たなくなった高校時代、

唯一、賞状をもらったものが、俳句であった。

当時、某新聞社の俳句コーナーに、なぜかほぼ強制に近い形で

全員が俳句を出品していた。

確か、夏休みの課題で提出したものを一気に出品したのだと記憶している。

10作品ほど、応募対象になった。

そのうちの1作が新聞に掲載され、さらにその作品が年間賞にも選出された。

新聞社が主催する年間賞の表彰式にも参加した。

 

その年間賞の表彰式に参加した際に、

同じく高校生で年間賞を受賞した人に出逢った。

彼女は、とにかく俳句を作ることが好きで、常に俳句のことを考えており、

良い言葉を知ったり、良い句ができたりすると携帯電話にメモすると言っていた。

(当時の携帯電話はメールと電話くらいしかできなかったため、

送信メールにメモがたまっているというようなことを言っていた気がする。)

 

その彼女の情熱に触発され、一時期、俳句を作ることに熱中した時期があった。

ただ、その情熱は、程なくして冷め、その後10年以上、再燃することはなかった。

きっと、年間賞という形で認められたことは嬉しかったが、

認められ続けるための手段をその後見つけられなかったことが要因だと思う。

 

ただ、その時に選出された句については、一字一句違わずに覚えている。

なぜその句を作ったのか、当時の心境はまったく覚えていないが、

無意識にその句が作れたのは、今振り返ってみても、

豊かな感情の持ち主だったんだなと自分で自分を褒めたい程だ。

 

すっかり忘れていた情熱が、今になってまた再燃しそうな気配があるのは、なぜか。

よく観ている番組に触発されたのがきっかけであるが、

普段自分が見ているもの、感じていること、イメージしている映像を

言葉にするということがいかに難しく、それだからこそ尊いものであるのかを

今まで以上に感じるようになったからだ。

それが言葉にできる人、伝えられる人、そして自分以外の誰かに考えさせられる人は、心からの尊敬に値する。

自身は、もちろんまだその足元にも及ばないが、

せめて足元に及びたいという気持ちは、持ち続けたいと感じる。

 

何気ない日常の中に、自身しか感じられない変化を少しでも感じ取れるようになったら、

高校生の頃の豊かな感情を取り戻せるのではないか。

そうすれば、雨に打たれる桜を見たときも、

今よりも少しだけ、豊かな気持ちになれるかもしれない。