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名もなき日常

何気ない毎日が大きな物語を作っている

新しいことを始めてみた

以前、万事中途半端であることの悩みとある種の開き直りについてまとめたが、

性懲りもせず、また新しいことを始めてみることにした。

 

理由は、まだ自分が知らない可能性があるのではないかと考えたからだ。

本当に興味があることや将来の稼ぎの種になるものが

このタイミングでも見つかるかもしれないと考え、思い切って始めてみた。

 

とはいえ、どこから始めて良いのか分からず、まずは独学の道を探ってみる。

ネットで独学の極意みたいな情報を集めてみるものの、

1冊専門書を購入した方がよさそうだという結論に至り、

自分の直感で「基本のき」を学ぶことができそうな本をアマゾンで購入。

 

今、アマゾンの配送についてニュースになっているが、

夜に購入したにも関わらず翌日の午前中には、本が手元に届いた。

なんて便利な世界。

このような生活をしていると、この生活が当たり前になってしまう。

それもまた怖い。

www.nikkei.com

 

話が逸れてしまった。

 

まずは本の目次を見て、この本で学べる内容の全体像を把握する。

私がイメージしていた「基本のき」は、この本があれば実践を踏まえながら、

一通りは身に付きそうだ。

概論を吸収するに留まらず、実際に手を動かしながら学べる形式なのが理想。

 

その後、本に忠実に、学ぶための環境を整える。

今は、パソコン1台とインターネット環境さえあれば、一歩を踏み出せる

チャンスが転がっていることがすごい。

これで自分も、カフェでカフェラテ片手にパソコンのキーボードを叩く生活が

実現できるかも??

 

始めてみると、まだ吸収段階であるからか、すべてが瑞々しくて面白い。

もっと知りたい、知ってアウトプットができるようになりたい、

知識を持った人の話が聞いてみたいと思うようになる。

しばらくは、この新たなチャレンジで日々が充実しそうな予感。

 

そんなチャレンジ開始から10日ほどが経過。

日々新しい知識をスポンジのごとく吸収しながら、

あと1章をクリアすれば、本1冊分の「基本のき」を習得できるところまで

たどり着いた。

 

思っていたよりも、吸収力が衰えており、

何度も同じ事項を確認するに閉口することも度々あった10日だった。

最後の1章は、購入した本の集大成的な役割を持っているため、

その前に、最初からもう一度知識の振り返りをしている今日この頃。

 

あと1章でこの本は終わりだが、たとえこの本が終わったとしても、

あくまでスタートラインに立ったくらいのレベル感。

いや、クラウンチングスタートで腰を上げたくらいまでは来ているかも。

もし、本気で今学んでいることを稼ぎの種にするのであれば、

この10倍程度の知識吸収に加え、日々進化する情報収集に努めることが、

最低必須要件になりそうだ。

 

興味があって始めたことで、

まだまだ知らないことを知っていきたい欲求は衰えてはいないが

(10日で衰えるようであれば、思い切って辞めた方が良かろう…)、

果たして、今後、この知識を活かせる適切なチャンスに巡り会えるかどうかは、

まだ分からないし、自身の覚悟も固まってはいない。

 

ただ、新しいことを始めてみて感じたことは、

知らないことを知っていくことは、自身の生活の充実を実現できる

ひとつの方法として、大変優れているということだ。

 

継続できれば大変幸せなことだけれども、

もし、中途半端で終わってしまったとしても、何かを始めてみて感じることは、

今後の自身の何かしらの財産になるのではないかなと

今回の新たなチャレンジを実際にやってみて感じた。

 

このチャレンジが何かしらの形で花を咲かせることができた暁には、

成功体験なんかもアップできたら素敵だななんて、

あまり現実味のない妄想をしながら、今日も勉強に励むのです。

音楽は映像だ

昨日、とあるテレビ番組を見ていたところ、視聴者の思い出の曲を

ドラマにし、クライマックスでアーティストがその曲を歌って

ドラマを盛り上げるという試みを行っていた。

ドラマに音楽は必要不可欠であると思うが、

音楽がきっかけとなり、ドラマが展開といくという作り方もまた、

エンターテインメントの奥深さだなと感じる。

 

その番組では、音楽をドラマ仕立てにしていたけれど、

よくよく考えれば、音楽とは映像であるなと個人的には感じる。

その映像は、共通のものではなく、個人個人が持っている映像。

初めてその音楽を耳にした時の記憶や、よく音楽を聴いていた時の

シチュエーションというものは、映像として記憶されており、

いつでも映像として蘇る。

 

たった5分前後の曲の中に、通常では考えられないほどのデータ量が

映像として詰め込まれている。

音楽に関する個人の映像の可能性は計り知れない。

 

とあるバンドを好きになったきっかけの曲のイントロを聴くと、

風邪をこじらせて寝ていた時の映像が思い浮かぶ。

ただ、その後、その曲のイントロに受けた衝撃も一緒に息を吹き返す。

 

予備校時代に好きだった人のことを思い出す曲がある。

結局思いを伝えることができなかったせいか、

その曲を聴くと、切ない想いも一緒に蘇ってくる。

曲そのものは非常にポジティブなものなのに。

同時期に聴いていた別の曲は、夏が来ると無性に聴きたくなる。

映像が鮮明に残っているとは言っても、

すでにその時の想い人の顔ははっきりと思い出せない。

 

今のパートナーに、結婚を決意した後に別れを告げられた時に聴いていた曲は、

今でもよほどのことがない限り、耳にすることができない。

その歌詞が、当時の自分にマッチしすぎて、

後悔の念を忘れまいと自分への戒めのような気持ちで聴いていたことを思い出すからだ。

当時、ライブでよくその曲を聴いたが、毎回涙なしには聴けなかった。

人は失ってみて、初めてその尊さに気付くと言うが、

それが歌詞になっていて、心が痛む。

 

思い出したくないことを思い出してしまう曲もある。

曲そのものは大好きだし、素晴らしい曲だけれども、

引き出しの奥にしまいこんで鍵をかけたはずの過去を

また掘り返してしまいかねないために、積極的に聴けないという曲。

曲に罪はないし、思い出さなければよいのだが、

その曲の映像を、すぐに消せるほど器用ではないため、

積極的には聴かないという判断に至った。

 

懐かしいメロディを聴いて盛り上がるのは、

その頃、その音楽に本当に夢中になった思い出があるからだろうなと思う。

どれだけ長い時間耳にしていなかった曲でも、

イントロが鳴った瞬間に、当時に戻れて、口ずさめるというのは、

全身の細胞が、その音楽の映像に反応しているからなのだと思う。

不思議と歌詞まで覚えているのも、そのせいだろう。

 

最近新しくリリースされた曲があまり覚えられないとか、

いい曲だけれど以前ほどのめり込めないとか感じるのは、

音楽に付随する映像が、以前と比べるとフレッシュさに欠けるとか、

鮮烈なものではないとか、そういう理由もあるのかなと感じる。

感受性が低くなってしまっているのかなと一抹の寂しさも覚える。

 

自身の環境が変化すれば、音楽の聴き方や好みも変わってくる。

その音楽制作に携わっている人が、自身より年上なのか、年下なのかでも、

感じ方は違うのかもしれない。

 

でも、自身にとって良質な音楽には、出逢い続けたいという気持ちは、

幼い頃から変わっていない。

環境が変わることで、音楽に対応する映像も変わってくるだろうけど、

その映像に、全身の細胞が瞬時に反応する音楽に、1曲でも多く出逢いたい。

 

ひとまず今日は、苦い思い出で封印しがちなあの曲を、

引き出しの奥から、そっと取り張り出してみよう。

中途半端

自身の性格の特徴なのだと半ば諦めているが、

結構色々なことに手を出しては、途中で辞めていることが多い。

誰かに強制されて始めたことでなくとも、最後までやり抜くということが、

あまりできないらしい。

継続することの美しさは理解しているつもりだが、

それはあくまで他の人の美談としての理解にすぎない。

 

過去に最も続いたことと言えば、とあるバンドのファンであることくらいだ。

(現在進行形。)

周囲からはよく飽きずに追いかけ続けていられるねと言われるが、

それくらいしか、続けられているものがないだけだ。

他の人が継続している尊いものが、自分にはなかったのだ。

 

だからといって、そのバンドについても、

全資産をつっこんでまで追いかけているのかと言われると、そこまででもない。

20年近くファンクラブに入り続けていて、音源は購入して、

ライブがあれば、行けるだけ行くという程度だ。

複数買いをするわけでもなく、遠征はワンツアーに多くても2回程度、

ライブグッズをしこたま購入するわけでもない。

継続していることではあるが、それもまた中途半端と言わざるを得ない状態だ。

 

どうせ続かないのであれば、最初からやらなければ良いとも思うのだが、

なぜか始めてしまうのである。

要領はよくないが、最初からまったくできないということでもなく、

興味を持てる程度にできるため、「もしかしたら…」「極められれば…」という

根拠のない自信が芽生えてしまうのだと思う。

 

ただ、始めるときの動機があまりにも不純であるため、

続けるという効力が途中で薄れてしまうのだろう。

そもそも自身のことであるのに、「思う」「だろう」が多いことから、

ことを熟考せずに始めてしまい、熟考せずに終わらせてしまうという

結果を招いていると考えられる。

 

小学校にあがる前から、習い事を複数始めていた。

小学校の頃の習い事は、

【ピアノ、スイミング、そろばん、習字、英語(公文)】

この頃はおそらく自身の意思ではなく、親からの提案で始めたものだが。

一番続いた習い事がピアノ。それでも10年程度。

10年続けたからと言って、これといった功績は特にない。

今、趣味で弾く程度だ。

 

スイミングについては、泳法はすべて習得できたが、

社会人になってから、ダイエットのために一時期通ったジムのプールで、

少しばかり役に立つ程度にしか、効果を発揮できていない。

 

そろばんと習字は、今の生活の中でそれなりに役に立つことはあるが、

食べていくための手段には到底できるものではない。

中学校くらいまでは、賞状やトロフィーをもらう程度には、

習得できていたけれど。

 

中学校で入部した部活は、陸上部。それも、消去法で選んだ部活だったから、

陸上部が比較的強かった高校では、太刀打ちができなかった。

仮入部で挫折。一応、中学校の時は、県大会に出場したという実績だけはある。

 

高校では、運動部の仮入部には結構行ってみたが、結局入部に至らず、

写真部に入部。ただ、活動は展覧会前の時くらい。

写真の基本を教えてもらうでもなく、

それを習得する意欲があるわけでもないから、

ただ、フィルムの一眼レフカメラを買って、撮影するだけに留まった。

その後、一時期趣味にしていたこともあったが、

基本の理解できていなかったためか、

趣味のひとつとして数えるにはおこがましいと感じるようになり、

今は、もっぱらiPhoneに頼るのみ。

 

性格も中途半端。

極端にポジティブでもなければ、生粋のネガティブというわけではない。

めちゃくちゃテンションが高いこともあれば、

落ち込んだり悩んだりして、ウジウジしていることもそれなりにある。

そんな性格だから、自分で納得した決めたことについても、

後悔はしないにしても、別の道を選んでいた時にどうなっていたのかを

考えてしまうことも多い。

 

大学生になっても、社会人になっても、

その性格…というか性質は変わらないとつくづく感じる。

いろいろと手を出してはみるが、どれも極めることができず、

ある程度かじって、それなりの知識はあるけれど、実践に及ばないことが、

あまりにも多い。

それをどのように、趣味や自身の今後につなげるのかということへの

考えがあまりにも甘いのだ。

始めるときのゴール設定が甘いのか。

いや、始める時はさほどハードルが低くて良いと思うのだが、

最初のゴールが見え始めた時に、次のゴール設定に考えが追いつかないのだ。

 

そして、決定的なこととしては、これだけ飽きっぽくて、諦めがちな性格で

あることを自身が分かっているにも関わらず、

とにかく続けようという覚悟がないということである。

始める時は、気合いが入っているために、ゴールに向かって猪突猛進するのだが、その熱意が途中で消えかける。

そこで、どうすれば続けられるのかを人は考えると思うのだが、

自分は、そこでプツンと糸が切れてしまい、それを再度紡ぐことができない。

 

ある程度できたことによる満足を得られるのも良くないのかもしれない。

できない時期は、できるようにもがくことができるが、

その後、同じことの繰り返しだと感じてしまうと、

更なる高みを目指すのではなく、他のことに手をのばしてしまいたくなる。

継続することで得られるものではなく、別のものや別の道に、

理由もなく惹かれてしまうのだ。

そして、やってみてある程度できると、「自分にはこれが向いている」と

思い込み、その時は夢中でやるのだが、また途中で息切れを起こす。

 

この性格が嫌でたまらず、どうにかならないかと常日頃思っているが、

結局直らないということは、心底嫌だと思っているのではないのかもしれない。

案外、その思いも中途半端で、

しばらくすれば、また別に熱を込められるものが表れて、

そのことに心奪われていくのだろう。

 

この文章を書いている今も、

思いつくままに、キーボードを叩いているという中途半端な状態だ。

 

そしてこの文章そのものも、何のまとまりもなく、

中途半端な状態で終わりを迎えることが、容易に想像できる。

 

きっとこれからも、中途半端を積み重ねていくことだろう。

「チリも積もれば山となる」というが、「中途半端」も積み上げれば、

それなりになるだと、漠然と信じながら。

先日最終回を迎えたドラマ『カルテット』で、

松田龍平演じる別府司が「夢を見て損することはなかった」と言ったが、

その意味する「夢」とは意味が異なる夢について書いてみたい。

 

最近は、「夢」を見るということがめっきり減ってしまったため、

睡眠中にしか夢を見ることはない。

(1年くらい前までは、まだ「夢」に貪欲で、

 叶えられていない「夢」にもがいていた時期もあったのだ。

 もういい歳なのに。)

 

昔からどこでも眠ることができ、短時間の睡眠であっても、よく夢を見る。

夢の中で、現実でないことが分かるという人がいるが、

自分は夢を見ている時には、現実でないという自覚はほぼない。

だからこそ、夢を見ている時間を、十分に満喫している方ではないか。

 

夢の中では、小説を読んでいるように、

現実ではない自分の世界を堪能している。

少なくともその時間は、楽しい思いをしたい。

けれど、残念ながら夢をコントロールすることはできず、

目が覚めてから、夢でよかったと思うことも多々ある。

 

見ている夢が自身の心理状態の表れであるとも言われている。

寝る前に考えていたことが、夢という物語になって、

語りかけてくるようなことも多い。

また、全然考えていなかったことが、夢という形で、

自身の前に姿を現すこともある。

潜在的に何かを訴えかけられているのだろうか。

そのような時は、ある意味で寝覚めが良くない。

しばらく、布団の中から出ることができずに、ぼーっとしてしまう。

 

最近、会社のメンバーと一緒にリレーに参加する夢を見た。

自分はアンカーを任された。

バトンを渡すようなリレーなんて、15年くらいやっていない。

中学生の運動会で走ったのが最後だと記憶している。

当時は、1番目の走者だった。ただ、バトンを2番目の走者に渡したのは、

自分が最後だった。要するに、ビリだったのだ。

当時、陸上部のハードル(100メートル)の選手だったのに…

今更、そのときの嫌な記憶から抜け出したいと考えているのだろうか。

しかも、特に苦い思い出と自分の中で位置づけている記憶でもないのに。

 

夢の中では、アンカーの自分が一番でゴールテープを切った。

しかもそのときのタイムが、社内の歴代記録を塗り替えたということで、

社内報のようなもので、発表された。

特に最初から狙っていたことではなかっただけに、

恥ずかしながらも嬉しいという感情を夢の中で抱いたように記憶している。

そう考えると、やはり中学校時代のリレーの記憶を

無意識のうちに、嫌なものと思っていたのかもしれない。

 

目が覚めると、たくさん見たはずの夢は結構忘れてしまうことが多いのだが、

上記の夢は、自身の中でもインパクトが強かったため、

直近の夢の中では、ある程度鮮明に覚えている。

 

自身が見た夢の断片をつなぎ合わせたら、

案外面白い物語になるのではないかという甘すぎる考えを持ったこともある。

ただ、そうは問屋が卸さないらしく、目が覚めた時点で覚えている夢も、

時間の経過とともに、大枠すら忘れてしまっていることが多い。

また、見ている本人が面白いと感じても、

本人のこれまでの経験等があるからこそ面白いと感じるものであって、

他の人に聞いてもらうと、

そうでもないということも実は多いのではないかとも思う。

 

そうそう、『カルテット』でも髙橋一生演じる家森諭高が言っていましたね。

人が見た夢の話ほど、共感できにくいというようなことを。

「へえ〜」しか生まないって。

 

でも、これから叶えていくための「夢」は、周囲の人も一緒に

見ていくことができるから、キラキラしていて、語るに値するのだろう。

 

なんてつまらない夢の話を長々としてしまったのだろうと、

軽い自己嫌悪に陥りながら、

最近、めっきり見ることがなくなった自身の「夢」を

もう一度、イメージしてみるのも悪くないなと思う。

残業

残業時間の上限について、国会で議論が交わされている。

突然、火がついたようにこのことが議題に上がり、意見が交わされている。

 

そして、「100時間」「80時間」「60時間」という数字がメディアに躍った。

この結果に、どうも数字だけが一人歩きをしてしまっているようにも思える。

何を根拠にこの数字が発表されているのだろうか。

この数字を設けることで、企業には、就労者には、

どのような改善が見込めると想定しているのだろうか。

 

厳格な数字目標だけを設けることは、

物事の本質を一層、見えにくくしてしまう恐れがある。

今回は、「残業時間」という数字にフォーカスをするあまり、

見直さなければならない事象が、見えにくくなってしまう危険も潜んでいると思う。

ただただ、時間減らすことだけを求めるだけでは、

余計に問題が大きくなってしまいかねないと自身は危惧している。

 

企業サイドも、残業時間について言及する際には、

「残業時間を○時間以内に抑えている」ということに終止してしまう

危険性もあると思う。

同時に、就労者サイドも、「時間」という数字にあまりにも固執してしまう恐れもある。

 

もちろん、そのためにいわゆる効率化というものを諮る必要は十分にあるだろう。

どのような成果を生み出すのか分からない業務に、

多くの時間を費やしていることも、否定はできないと思う。

これを機に、意識を高め、これまでの業務内容を見直してみることは、

必要不可欠であると思う。

ただ、それも、個人単位でできることには限界があると思う。

最小単位のチームでも良いので、組織で取り組むことが、

より高い効果を上げられるはずだ。

 

組織で取り組んだとしても、

これまでの70〜80%の時間で100%の成果を挙げることは、

容易なことではあまい。

求められる成果が、どうもがいたとしても、

時間や人の力を必要とするものであった場合、

効率化という言葉だけで、問題を解決することは非常に困難だ。

 

企業間での取引を成立したいと場合、本来は対応しないことに対応することや

他の企業よりも安価で業務を引き受けることは、

適切な業務量以上のものを現場に要求することになる。

ただ、取引を失うことへの恐怖から、

顧客の要望を受けざるを得ない状況を生み出してしまう。

このような残業時間増加の温床になるような事態を野放しにしては、

どれだけ政府が大声を上げ推進をしても、本質的な改善にはならないと思う。

 

ただただ、目先の目標をクリアするためだけに、

安易な対応に留まることだけは避けなければならないと思う。

 

目標の数字は、数字でしかない。

数字は目標であって、目的ではない。

本来の目的を達成するために、本質を見極める力が求められている。

 

この議論によって、就労意欲が高い方が、柔軟に就労できる環境が、

より整備されることを願ってやまない。

あくまで一個人としての意見・感想に過ぎないが。

カルテットの美しさとは

今クールのドラマの中で、自身が最も楽しみにしているドラマが

「カルテット」である。

音楽に関連するドラマだから面白そうだという理由で見始めたが、

回を追うごとの予想外の展開に、毎週火曜日が楽しみになってきている。

ネット上でも盛り上がりや見解を見ていると、

自身はそこまで深い見方ができていないと感じるところだが、

何が魅力になのかと言われると、4人の作り出す世界観の

「妙」みたいなところなのではないかと思う。

 

「カルテット」とは、4人組や四重奏、四重唱を指す言葉であるが、

4人が創り上げる世界観を指す言葉として理解して問題ないだろう。

 

4人という数字は、実に不思議な数字だと思う。

今回のドラマも、トリオでも、クインテットでもなく、

カルテットであることが、

より登場人物全員の見せ場を絶妙に描いているのではないかと感じる。

 

4人それぞれに個性や華がないと、全体としての魅力に欠けるし、

だからと言って、個性が主張しすぎるとバランスが悪くなってしまう。

全員が正しく整列してしまうと、埋没してしまう危うさがあり、

でも、同じ志でなければ、たちまち不協和音と化してしまう。

 

横一列に並んだ時の圧迫感や不足感がなく、

向かい合った時のおさまりの良さは、「4人」が持つ絶対的な強みだろう。

ただ、そのおさまりの良さは、数字上だけのものに過ぎず、

何か小さな要因ひとつで、たちまちバランスが乱れてしまうが、

「4人」の脆さでもあると思う。

 

また、4という数字は偶数であるために、

場合によっては、2対2の構図が生まれ、完全に決裂してしまう恐れもある。

奇数の場合には、意見が分かれた場合には、誰かが1人になってしまい、

それも解決の糸口を見つけることは難しいと思うが、

2対2で完全に意見がぶつかった場合も、これまた厄介な事態と言わざるを

得ないだろう。

 

4人が生み出す世界には、絶妙なバランスが求められると思う。

それ故、4人という構造のなかには、カリスマ的存在は、

あまり必要がないように感じられる。

その分、各個人が背負った役割を最低限の狂いだけで、

全うしなければならない。

 

そのために、生み出す世界観に、より個性が現れるのが、

カルテットの特徴であると思う。

 

4という数字が持ち、創り上げる世界観は、

そういう意味では実に不思議で魅力的なものだ。

 

ドラマ「カルテット」は、現時点で最終回を残すのみ。

4人が創り出す世界観には、どのような結末が待っているのだろうか。

それぞれの個性がどのような光を放つのだろうか。

終わりが寂しいけれど、早く続きが見てみたいという衝動も押さえきれない。

 

www.tbs.co.jp

渡瀬恒彦氏に捧ぐ

目覚めてテレビのスイッチを入れ、

最初に目にしたニュースが、渡瀬恒彦氏逝去のニュースだった。

愕然とした。

信じられなかった。

 

家にいる時間が増えてから、

今まで以上にサスペンスの再放送を目にするようになった。

BS放送CS放送を含めると、1日中サスペンスが楽しめる。

 

再放送のサスペンスは、本放送で一定の人気があり、

再放送をした場合にも、ある程度視聴率が見込めるものを放送しているはずだ。

代表例がテレビ朝日の相棒だろう。

 

再放送をする番組の中で、主演として一際目立っていたのが、

渡瀬恒彦氏である。

自身が好きな「サスペンス俳優」の一人でもある。

シリーズ物の代表作も多い。

 

大ファンというわけでもなく、彼を語るに足るだけの知識や情報はないが、

それでももう渡瀬氏が主演の新しいドラマを見ることができないのは、

非常に無念である。

 

4月から放送が決定している「警視庁捜査一課9係」は、今年がseason12。

干支が一回りする節目の年である。

渡瀬氏自身の思い入れも大変強い作品であるようで、

何とか撮影には参加したいという意思を表明していたそうだが、

結果的に撮影はできずに、この世を去る形になってしまった。

同作品が好きで、4月からの放送を楽しみにしていた矢先の出来事に、

残念でしかたがない。

 

幼い頃から、「土曜ワイド劇場」はじめ、サスペンスは良く見ていた。

実家にいた頃はテレビのない自分の部屋にいることが多かったため、

見たいものがあるときだけ、テレビのある部屋に顔を出していた。

流行りもののドラマは、毎週見ないとドラマの続きが分からないが、

サスペンスはたいてい1話完結である。

たとえ見逃しても、次の回に支障がないため、その後腐れのなさが、

当時の自分の需要には、マッチしていたのかも知れない。

 

だいたいサスペンスで主演となる俳優・女優は決まっている。

その中の代表格の一人が、渡瀬恒彦氏である。

また、彼が演じるキャラクターが魅力的であり、

ついつい思い入れが深くなってしまう。

 

サスペンスにとどまらず、彼の俳優としての代表作は数多く存在すると思うが、

サスペンス好きの自身にとって、彼が出ている作品で、

特に思い入れがあった作品をいくつか列挙したい。

 

 

タイトルだけだと少ないように感じるが、

それぞれのシリーズが10年以上続く息の長いものが多い。

渡瀬氏がそれぞれの役に息を吹き込むことで、

長年愛されるキャラクターを生み出していった結果だと思う。

 

彼の功績をたどっている中で思い出したが、

半落ち」のテレビ版で梶総一郎役を演じていたのも、渡瀬氏であった。

映画版の「半落ち」があまりにも傑作であると感じていた当時、

テレビ版を放送する必要があるのかという感想を抱いたが、

渡瀬氏が主演ならば見てみようと思った記憶がある。

彼ならば、予想以上の梶総一郎役を演じてくれるのではという期待からだ。

 

半落ち」はサスペンスではないが、

それほどまでに、渡瀬氏は自らのサスペンス自人生にとって、

欠かせない存在だった。

 

上記に挙げたのは、彼の俳優人生の中でのほんの一部に過ぎない。

改めて彼の功績を拝見すると、

ドラマ史に残る名作品に欠かせない存在だったことがよくわかる。

 

語るに足る程の資格はないと思いながらも、

自身の中では、大きな存在であった渡瀬氏に捧げたい。

名作の数々をありがとうございました。ゆっくりとお休み下さい。

 

www.tv-asahi.co.jp