名もなき日常

何気ない毎日が大きな物語を作っている

何が言いたいのかまとまらないけれど、更新をしてみる

これまでは、何かしら書きたいとか、読んでもらいたいと思うことがあって、

ブログを更新していることが多かったが、

今日に至っては、特に欲求がない状態で、ペンを執っている。

自分にとっては、これまでにやったことがない試みだ。

 

書きたいことがないと言ったら、半分くらい嘘になる。

日々感じていることやモヤモヤとした気持ちは、できる限り言葉にして

吐き出したいとも思っている。

 

ただ、今日はそれがうまくひとつの話題としてまとめることができそうにない。

 

一度、タイトルを決めて書き始めてみたが、

無理して言葉をひねり出しているようだったので、リセットした。

 

職業としての書き手であれば、こんなことは許されないだろうから、

書き手の方は本当にすごいと思う。

 

いつか、文章にまとめて書き残したいと思う題材もあるのだが、

どうも今、それを書きたいという気持ちにはならない。

書いているうちに、大きなストレスを抱える可能性が高いからだ。

書くという行為が基本的には好きであるため、ストレスを感じてしまっては、

今は本末転倒だと思うので。

でも、一方で、自分の中だけに留めておくにも、それはそれでヘビーである。

飾らずにすべて吐き出せたら気持ちが楽になるだろうな。

 

元々、毎日更新することが目的で始めた訳ではないのだから、

書きたいことがまとまらないならば、わざわざ更新する必要はない。

ただ、今日更新をしないという判断をすると、

書いたものをアップするということから遠のいてしまうような気がしたので、

まとまらなくてもいいから、今日は更新はしようと思った。

 

日々、書くという言う行為がルーチン化されつつある傾向だろうか。

 

職業が会社員だった頃、繰り返しの日々に飽き飽きしていたところがあった。

業務内容は特に代わり映えせず、同じことの繰り返し。

そして、そのループに終わりは見えず、一体いつまで、どこまで走ったら、

いわゆる「ゴール」が見えるのかも分からず、

そのルーチンから抜け出したいと思うことも、少なくなかった。

 

でも今となってみると、ルーチン化された日々や時間も悪くなかったなと思う。

隣の芝が青くみえているだけだとも感じるが、

ルーチンとされる行動の一つひとつにも小さいながらも違いがあり、

そして変化があったのだと思う。

心の余裕がなく、その違いや変化に気付かずに、やり過ごしてしまっていた。

そんなルーチンの日々も、離れて客観的に見られるようになってようやく、

大切な時間だったのだなと思う。

だからといって、もう一度同じところに戻りたいかと言われたら、

答えは「NO」だ。その時間を手放してでも手に入れるべきものがあると

判断をして出した結論を、覆すつもりは、毛頭ない。

 

ただ、ルーチンそのものを頭から否定していた自分の考えは、

幼かったなと今は思える。

 

今まで追われていたことから、少しだけ解放されたために、

自分と向き合う時間が圧倒的に多くなる中で、

自分が何者であるのかを考えるようになった。

組織の中での立ち位置がなくなった自分にどのような価値があるのか。

今後、また、別の組織に属すると判断した場合に、価値ある人間で

いられるのかどうか。

だからこそ、書きたいという衝動に駆られることや、

新しいことを始めたいという気持ちが湧き出ることがあったのだと思う。

 

このまとまらない気持ちでも、それなりに文章にしてみることで、

すこしでもモヤモヤした気持ちが晴れるのではと考えている。

 

会社という組織に属していた頃、

相手が言いたい意図が分かりにくいことや、結論が先に伝えられないことに

もどかしさを感じていたことがよくあったが、

今の自分の書いている文章ほど、そのもどかしさを助長するものはない。

 

組織に属していた頃の自分だったら、

「で、結論は何?」とか、「言いたいことが理解できない」というコメントを

してしまうだろう。

 

立場が変われば、考えや行動、対応もそれなりに変わるということなのだろうか。